taikamieliの日記

北海道在住です。旅行や音楽が好きです。日々の記録を書いていこうと思います。

遅すぎた春

あなたのその笑顔が わたしにとっての真実でした

その笑顔に ずっと惹かれていたのです

太陽のような あなた

ひまわりのような あなた

ひとりだけ 最初から ちがったよね

でも 最初に みつけてくれたのは あなただった

そのことが いますごく 遠い過去のようで くるしいです

 

「すき」

という言葉では 陳腐すぎてなにも伝わる気がしない

あなたが笑うと 涙がでるのさ

あなたが生きていてくれて それがうれしいんだよね

でも 

わたしと一緒にいてくれたらって どうしても思ってしまう

いま 呼んだら来てくれる?

お得意の未読スルー?じゃなきゃ既読スルー?

 

あなたがさ いまどこでなにをしてるか わたしは知らない 聞かない

あなたが どんなふうに生きてきて どんな傷があるか 知らない 聞かない

でも 正しく生きてきたんだねって

それだけは わかる

わたし以外にも それがわかるひとがたくさんいる

だから あなたは大丈夫なんだよ

 

いい女ぶって ごめん ぜんぜんそんなんじゃないのに

あなたを 軽んじて ごめん 自分を守っていたかったの

あなたは 最初から あなただったよね

わからなくしてたのは わたしだったね

 

もう 前みたいに想ってない?

自分の気持ち 押しつけたくないけど

でも 自分の気持ちを 見せないと 先にすすめない

それをあなたがどう思ってるか わたしは本当にわからないんだよ

だからさ 返事だけはしてよ

 

「トキメキや性欲は、高くつく」

上野千鶴子先生に言われました

ほんとうですね 

どっちも求めたわたしのコストが いま この状況なんでしょうか

このくるしさを 引き受ける覚悟は いまからでも間に合うのでしょうか

こんな甘えたのわたしじゃ だめですね

せめて 終わる前に ぐちゃぐちゃにわがままを言ってみたい

あなたを困らせて 後悔させて それから わたしだけ すっきりして 次に進みたい

…そんなこと できたことないけど

 

人生の36回目の春をむかえて。

遅すぎた春を、むかえて。

髪を染めてきました。

また、赤のインナーを入れました。

前回の経験から、耳にかけたときに耳の下部分がちょうど赤になるとかわいいかな、と思い、それを伝えてみる。そして、全体的な表面の髪色も変えた。前回はほぼ真っ黒にされてしまい、しあがりが思ってたのと違ったが、言えずにいた。今回はリベンジで、全体の色は少し明るめでお願いします、と言えた。長さも、1cmくらい切ってください、と具体的に。

「うんうん、なるほど」と担当美容師さん。今回は驚かれなかったし、スムーズに理解してくれたようだった。

そっか、こういう風に伝えればいんだな、って思った。いつも「こんな感じで思ってるんですけど、、どうですかね?」って聞いてたんだよね。。

いや、知らんがな、っていうね。

自分の希望とか、要望をはっきり伝えられるのって気持ちいいんだなーって。小さいんだけど、久々の感覚。

 

…とひとり感慨に浸ってると、若い女性のお客さんが来店した。どんなふうに髪型をオーダーするのかなあと思って、耳をそばだてていると、「ここをこう、こういう風にしたいんですけど~、この方法もあるかなあって思ってて~ え、どう思います??」って、めっっちゃナチュラルに聞いていた(笑)

私のさっきの自己満なんだったん?ってなるほど、嫌味なく、あっさりと、相談してたな~。

私の担当さんがその子も担当するみたいで、一緒にいろんな案を出してあげていた。

た、楽しそう・・・。わたし、自分の髪型相談するときあんな楽しい雰囲気になったことない・・・!と、ちょっとやきもちを妬いてしまった(爆)でも、担当美容師さんが、他のお客さんと楽しそうに話していると、嫉妬するのはあるあるなのでは。わたしは昔から、男の人でも女の人でももれなくやきもちやいてます、はい。その感覚も久しぶりでした。それにしてもかわいい子だったなあ。嫌味がなくてはきはきしててあっけらかんとしてて。会話を聞いていたら、女短に通ってたそう!・・・なるほど。だからだな。

髪の仕上がりはとっても最高!でした。自分の希望通りになってて、ちょっと感動した。やっぱり腕のある美容師さん♡

帰り際に、フィンランド土産のサルミアッキを渡したら、とっても面白がってくれて、喜んでくれました☆意外とおいしい!だそうでした(笑)味覚も大人ですてき、惚れそう(笑)

新しい髪色になったので、買い物がしたくなり、大丸でハンドメイドイヤリング3つも買ってしまいました♡好きなものだけ選んだら、カラフル祭りになった。でも、ほんとに気に入って早くつけたくてうずうずしてます。

いい日曜日だった。

片想い2

男と女のセクシュアルな関係は本当に不可解だ。

たとえば、それが「友情」ならば、異性同士でも同性同士でも、その関係を育むのには一定の時間がかかる。というのも、お互いにたいする「理解」や「礼儀」が必要になるからだ。

もちろん、友情にも「一瞬の惹かれ合い」はあるだろう。しかし、それが性的な欲望ではない限り、慎重な、控えめな、長期的なものになる。

 

相手がどんな人なのかもわからない。数回しか会ったことがない。相手の話がどこまで本当なのか確かめるすべもない。そんな場合でも(いや、そんな場合だからこそ?)セクシュアルな関係は成立しうる。それが私は心底不思議だ。

たった一回寝ただけで、なんであんなにも相手を掌握した気になるのだろう。自分は全く掌握された気はしないのに。(むしろしてほしいのにもかかわらず。)

寝るまえと寝たあとで、こちらの態度が激変する。

寝るまえは、「あなたのことは、信用していません、なんなら、ちょっと不信感です。でも、嫌いじゃないから、一応、誘いにはのってみます。わたしにたいする態度次第で、こちらも出方を考えます」の警戒モード。

寝たあとは、「あなたのことは、わたしがいちばんよく分かってる。あなたがちょっと強がってても、それをふくめ、理解してあげられる。でも、わたしのことを大事にしてくれないとやだからね」の優越モード。

ここの断絶と飛躍を担保しているのは、たった一夜の交わり。

しかも、それ自体がよくもなんともなくても(!)

恋愛はまさに高度に発達した文化だ。本能や自然などでは全くない。その文化特有の、暗黙裡の記号とコードとルールがある。そこから自由になりたいと思っていた自分がまさにどっぷりと、恋愛の文化の海に浸かっていたのだ。

 

わたしはなにも知らない。本当に。相手も、わたしのことなんかなにも知らない。

だから、お互い礼儀もなく踏み込む。はぐらかす。またほのめかす。そんなことする必要ないってわかってるのに。「文化」に縛られる。不自由だなあ。でも、相手を試すことなく、自分をさらけだすことが怖い。

 

「恋愛なんて面倒くさいし、いまのわたしには荷が重い。あと腐れない体の関係だけがちょうどいい」

そう思ってた。なのに、また会えるとなったら、何カ月もちらかったまんまの部屋を数時間でいとも簡単に片付けて、夕飯の買い出しをする自分がいる。そんな自分がまだいたことに自分自身がいちばん驚いている。自分が矛盾のかたまりなんだ。でも、なんだかそのエネルギーだけは愛しく思えた。それだけは確かだった。もはや相手の為ですらなくて、急に目的ができて生き生きする自分が愛しかったのだ。それがどんなに卑しくても、それでも「相手のためを思って」ってうそぶくよりずっと本当だと思った。わたしはそう、わたしのエネルギーの為に恋愛してる。それのなにが悪いんだ、とも思う。だから、相手にこれ以上求めるのは「おまけ」なんだ。相手が応えてくれたら「もうけもん」なんだ。

わたしは「自分本位な恋」をしたい。それしか本当じゃない。

相手もそうならいい。そうじゃなくても、別にいい。

片想い

たとえば、あの言葉が、あの場面でのただの常套句だったとしても。

たとえば、あの笑顔が、心の裏側のむなしさの発露だったとしても。

たとえば、あのまなざしが、欲望の演技だったとしても。

 

それが嘘か本当かなんて何の意味があるんだろう。

 

わたしがそれに心動かされたという事実。その感動が、いっときでも私を支配したという事実。それがすべてだ。

 

背徳感がわたしの思考と感情を複雑にする。こんなにちっぽけな背徳感でも。まったく楽じゃない。でも、それがいい。わたし自身の感覚が鮮明に鮮烈に、開いていく。誰にも言い訳できない、誰の責任でもない、「わたし」の熱情の存在。

 

あの子に執着するかしないかは問題じゃないのかもしれない。あの子の反応に傷ついてもいい。失望してもいい。向こうの気持ちはわからない。でも、わたしの感謝は変わらない。わたしの尊敬も愛着も変わらない。年齢じゃなくて、このタイミングで出会えたことが奇跡なんだって思う。あの子がきっかけをくれたこの感覚を、大事に、深めて、温めて、闘っていく。

 

わたしはわたし自身を、いつでもまっすぐ、あっけらかんと、開いていくしかないんだ。難しいけど、失敗もするけど、それこそをよしとして、挑んでいくしかないんだ。

 

岡本太郎『自分の中に毒を持て―あなたは”常識人間”を捨てられるか』(青春出版社、1988年)を再読して。>

かわいいひと

なんだか最近、ずっと心が戦闘状態で、自分に対しても他人に対しても、厳しい目を向けていたような気がする。相手に必要以上に下に見られないように。自分を必要以上に卑下しないように。「かわいい」とか「若い」とか「すみません」とか。言っても言われても居心地が悪くて。そんな自分が嫌だったわけでもない。疲れていたわけでもない。そういうことにやっと最近、「本気で」向き合うようになって、自分の行動として、相手の言葉への反応として、自分を再点検することで、成長している大事な時期なんだと思う。

でも昨日、心の鎧をするっと脱がせてくれる人と会った。

心底、「かわいい」と思った。

その人の「かわいい」は、うれしかった。

一生懸命、気持ちを伝えてくれた。

そのときの、その無垢な、純粋な、原罪を背負うまえの世界が眩しかった。

それが一瞬の夢でも。きっと私は忘れない。

髪を赤く染めた話

1カ月ほどまえに、人生で初めて、髪を赤く染めました。

 

と言っても、私は臆病なので、目立たないインナーカラーだけ。

しかも、ところどころ、耳にかけたら見えるかな?たぶん??

ってぐらいです。

 

けっこう意を決して「赤のインナーカラーを入れたいんですけど」と言ってみたところ、担当美容師さんの予想以上の「・・・え?」が返ってきて、心が折れました。

 

「職場、大丈夫ですか?」

 

(ええ、大丈夫です。髪型、服装、特に指定ありません。)

 

と、毅然として言いたいのに、

 

「・・・うーん、やっぱり目立つかな?やめた方がいいですかね?」

 

と、逆に聞き返すわたし。あんた何がしたいん?まじで。

こういうところに、誰かの目線が入ってくる。誰かの常識が入ってくる。

 

なじみの美容師さんに「え?」と怪訝な顔をされたこともショックだし、苛立ったけど、一番腹が立って情けなかったのは、自分のしたい髪型なのに、他の人の評価で決めようとして、他の人の反応に合わせようと、もう無条件で返答しちゃう、わたし自身。

 

その「え?」に「職場大丈夫?」以外の、「いや、似合わないでしょ」が込められているような気がして怖かったのかもしれない。

 

「いや、職場大丈夫ならいいと思いますけど、、ちょっと目立たない程度に内側にところどころ入れる感じにしておきますか?」

 

「・・・はい・・・。それでおねがいします。。。(泣)」

 

怖気づきまくった結果の、すべてお任せします状態。

私には自分の髪型、髪色について、なにも言う権利がありません、状態。

それでも、そんな自分に強烈な違和感を感じたことだけが、救いかもしれない。

 

もう早々に心がくじかれて、敗北感(?)でいっぱいになっていたけれど、なじみの美容師さんとの話は楽しかったし、人生初のブリーチにどきどきわくわくしたりした。

 

髪の色が抜けているのを見て「すごい!!!」と興奮したら、

「あ、そっか、taikaさんにとっては新鮮だよね。うち、ブリーチが日常だからスルーしちゃってました、すみません(笑)」

と笑われた。

 

そう、私が通っている美容院はもともとカラーの評判が高いお店で、それこそKPOP好きの10代、20代の若者が「このアイドルと同じ色にしてください!」とやってくるようなところ。

 

なんだか、そんなカラーのプロの美容師さんが、私のちっぽけな勇気だった「赤のインナーカラー」希望に戸惑いを見せたことに、「なんでだよ!他の人の髪はいつも染めてるのになんで私だけ!」という怒りもある一方で「やっぱりプロの美容師さんだなあ、ひとりひとりの社会的属性とかこれまでの好みの傾向とか考えてるんだなあ」と感心する気持ちも沸いてきた。ま、当たり前か(笑)。

 

そんなこんなで、いろんな感情がぐるぐるしながら、初めてのブリーチ&インナー赤髪が完成したわけです。

 

センター分けの黒髪ボブの内側にちらちらとのぞくいくつかの赤いライン。

鏡でまじまじと見たときの私の最初の感想は、

 

「わあ、赤い!私の髪が!!赤くなってるー!!!」

 

っていう無邪気で新鮮な喜びと、一方で

 

「え、、でもこれ目立たないかな?本当に大丈夫かな?なんかロックっぽくなってるけど、私に似合ってるのかな??」

 

っていう、心配するチキンな気持ちがないまぜになった、まあ煮え切らないものでした。

 

(そして、後者の、「目立たないかな?」っていう心配はほんとにただの幻想で、取り越し苦労だったということが、その後数日で分かることになります・・・。

そう、誰も、全く気づかないwww)

 

それでも、気分は不思議な爽快感でいっぱいでした。

あんまり、ここ何十年も感じたことのないものでした。

めちゃめちゃ及び腰ではあったものの、自分の意思で、自分の(ずっとしたいと思っていた)好きな髪色に、できた、ということ。

外からは見えづらくても、確かにここにある、という実感。

そう、赤いインナーカラーは自分の「意思」と「勇気」の証明、みたいに思えたのです。

めちゃくちゃ大げさだけど、でもそれが本当でした。

いつも、流されまくりの日々だけれど、髪の中に「踏みとどまれる自分」「自分ってこうなんだって言える自分」があることへの心強さ。

 

美容院を出た後、少しの不安のドキドキと、大きな解放感を感じながら、友人に会いたくなり、呼び出してしまいました。

すぐに気づいてもらえると思ってドキドキしていたのに、全然気づかれず、結局我慢できなくなって自分から言い出しましたとさ(笑)

自意識過剰すぎて笑えました。

 

他の友人にこの話をしたら、「え、ごめん全然気づかなかった」と言われ、「でも、それって髪の中にバターナイフもってる感じだね。自分を守るための」と言ってくれた。

 

私はこの言葉をたぶん、ずっと大事にしていくだろうと思う。

「すみません」を言わない人間になりたい

今日、何回「すみません」「申し訳ありません」を言ったんだろう、と考えてみた。

対面で、電話で、メールでも。

確実に10回は言っている。

でも、そのなかで、本当に私に非があって、相手に対して「ごめんなさい」という意味で使う必要があったものって、どれくらいあるんだろう。

そう考えると、まじでひとつもないかも。

というか、本当に悪いと思って謝るときって、「すみません」ではなく「ごめんなさい」を使っていることに気付いた。

そうすると、「すみません」って相手との関係を円滑にするための社交辞令のようなものだと思った。

でも、ふつうの社交辞令よりタチが悪いのは、これを使うと、やっぱり自分を卑下する、相手より下に置くというマインドが働くことだと思う。

この言葉を使うことによって、自分を安全圏に置いているようで、その実、自分の自尊心をすり減らしているんだと思う。

 

留学しているとき、誰かに何かをしてもらったときも、あるいは何かの誘いを正当な理由で断るときも、いつも“I'm sorry”と言っていた。

その度に、友人たちから心底驚いた表情で“Oh, you don't have to be sorry!!”と何度言われたことか。

それでも、ごめんなさいと言うことで心が軽くなると思っていた私は本当になんだったんだろう。

 

最近、つとに思う。

謙虚であることと、自分をないがしろにすることは全然違うって。

自分を否定し続けていると、そこに色んな人がつけこんでくる。

つけこまれても、それに毅然とNOと言えるようにならないと、自分がかわいそうだなって。

人間は間違うし、意図せず誰かを傷つけてしまうこともあるだろう。

そのたびに心から「ごめんなさい」と言える人間になりたい。

でも、保身のために、自分を下げるための「すみません」は、言わない人間に、なりたい。